はじめまして。とーくん(@token_at)です。
私にご興味を持っていただいてありがとうございます!
「とーくん」は、もちろんペンネームです。
ペンネームを考えているときにOauth2というシステム認証の仕組みを使ったシステム連携を実装していたので、「アクセストークン」という言葉が目に入り「とーくん」にしました。なので、「とー」君ではなく、「とーくん」です。どうでもいいですね。
さて、時間がない方のために、簡易版と詳細版の自己紹介を用意しました。
とりあえず、とーくんってどんなやつだ?!と思った方は、簡易版だけでもご覧ください。
とーくんのプロフィール(簡易版)
- 1976年生
- 兵庫県神戸市出身(現在も在住)
- 新卒で大手外資系IT企業に就職
- SEとして8年間勤務
- アフィリエイトで小銭を稼げるようになり退職・独立
- 独立後、軌道に乗るまで様々な事業を試す(ほぼ全部失敗)
- 某インフルエンサーの裏方(仕組み化)の経験有
- 結局、システムの受託開発で生き残る
- 妻も物販(輸入販売)で自営業
- 子どもは長女(2002年生)、長男(2005年生)、次女(2009年生)、次男(2012年生)
- 趣味はプログラミングと子どもの教育関係
- 長女、長男→中学受験終了。次女、次男→中学受験予定
- 稼いだお金は右から左に子供の教育費として消える ←今ここ
ここまでが簡易版です。
もうちょっと読んでもいいかなと思った方は、この下のプロフィール(詳細版)にお付き合いいただけると嬉しいです。
1976年生で生きてる年数が長いので、自己紹介もかなり長いです😄書いた自分が「長っ!!」と思うくらい長いです。
小見出しで目に留まったところだけでもお読みください!
生い立ちから小学生
私は兵庫県神戸市の市民病院で生まれました。
神戸市の中では比較的、街中の家に住んでいたみたいですが、多分、お金はなかったんだと思います。今もまだ存在しているのですが、本当にボロい小さな小さなアパートに住んでいました。
私が喘息(ぜんそく)持ちだったこともあり、幼稚園に入る頃に街中から多少空気の良さそうな神戸市の中でも郊外の市営住宅に引っ越ししました。
まだ、両親も30代前半で若く、低学年のうちは、キャンプに連れて行ってくれたり、旅行に連れて行ってくれたり、比較的普通の家族生活を送っていたと思います。
小学4年生で親の離婚を経験
あるとき生活が一変しました。確か私が3年生の頃だったと思います。
野球が好きだったわけではないので、あまり父親とキャッチボールした記憶はないんですが、突然、父親にキャッチボールに誘われて近所の公園に行きました。
幼い私の記憶にも「キャッチボールなんてめずらしいな〜」と思った記憶が残っていますが、その日から数日後、父親は家に帰ってこなくなりました。
あの日のキャッチボールは、父親からすると私と弟との最後のお別れだったのかもしれません。
母親が急に泣き出したり、突然、祖母の家にタクシーで行ったり、それまで経験したことがないような日々が続きました。
最終的に、小学4年生のときに親の離婚を経験しました。
当時、何があったのか詳しいところは知りませんが、成人後、母親からそれとなく聞いた話では、父親の浮気が原因だったようです。
母子家庭として数年間
子供ながら、離婚が決定的になったんだなと思ったのは、祖母の名字でのハンコが学校で用意されるようになったから。最初は意味がわからなかったんですが、あるとき、「そういうことか。」と納得した記憶があります。
ただ、学校では離婚の影響を考えてか、それまでの名字を名乗って生活を続けていました。
でも、これが逆に開き直ることができない原因になり、父親がいないことは、成人するまで、「友人に隠しておきたいこと」になっていきました。
専業主婦だった母親は一日中パートで働くようになり、祖母も毎週のように家に来てくれるようになりました。
とはいえ、1年経ち、2年経ち、と時間が経過することで、父親がいないことを引け目に感じることはありましたが、生活自体は落ち着きを取り戻していきました。
経営者のおじさんが父親になる
小学校6年生の頃でした。また生活が(というよりも私の感情が)一変するできごとが起こりました。
母親が、「知らないおじさん」を家に連れてきたのです。
小さな印刷企画の会社を経営しているおじさんだったのですが、その後、定期的に家に現れる様になりました。
母親が働いていたパート先(うどん屋さん)にお客さんとして来ていたらしく、そこで出会ったらしいです。
そして、最終的に母親はそのおじさんと再婚することになりました。
私が中学1年生のときです。
ただでさえ、多感な時期。
私と弟の前に、突如現れた見知らぬおじさんが、自分の父親になる。本心から受け入れるには実際、相当な時間がかかりました。
中学校を転校して環境が大きく変わる
小さな印刷企画の会社とはいえ、経営者。私の環境はまた一気に変わりました。
それまで、自宅は市営住宅。車はボロボロの中古の軽自動車。
これが再婚と同時に大きく変わりました。
再婚に合わせて、中学2年生の春のタイミングで転校。
家は一戸建てに。
車は、当時の日産の高級車である、シーマや、プレジデントに。
環境がガラッと代わり戸惑いました。
今となっては、赤の他人の子によくお金を出してくれたなと思いますが、当時の私には「経営者」という人種が身近にいなかったため、「お金」の話ばかりするおじさん(ここからは父親と書きますね。)に強烈な違和感を感じたこともよく覚えています。
中学2年生〜高校卒業まで
母親が再婚し、父の経済力のおかげで、ある意味、人並み以上の生活ができるようになりました。
中学、高校でも普通に友達と遊ぶこともできましたし、塾に通って勉強を頑張る環境も与えてもらえました。
ここは父親に感謝しかありません。
そのおかげもあって、学校の成績はよく、高校は地域の進学校にすすみ、大学も国立大学に合格することができました。
自堕落な大学生活を送る
大学にはギリギリ合格したものの周りの優秀な人達にまったくついていけませんでした。勉強的には大学生になって始めて挫折を味わいました。
結果、本当にひどい学生生活を送りましたね。
授業はほぼ出ない。
単位落としまくり。
朝から晩まで下宿でギターを弾きながら、テレビを見る。
週二回の軽音サークルに参加するためだけに、学校に行く。
マクドナルドでのバイト。
家庭教師のバイト。
デリバリーの寿司屋でのバイト。
バイトはそこそこ頑張る。
4年間こんな感じです。
本当にひどい状態で、ろくに学校の授業には出ずに、留年ギリギリで卒業し、なんとか引っかかった情報系の大学院に進学しました。
唯一、充実していたのは週末の彼女との時間。
高校時代に塾で知り合った同級生の女の子と学生時代から付き合うようになったのですが、相性がよかったのか、常に一緒に過ごし、実質半同棲状態でした。
こんな自堕落な生活を送ってる私を見放さず、よく付き合ってくれたものです😅
進学した大学院でもあまり生活は変わらず、たいして勉強もせず、就職した彼女との週末の時間くらいしか覚えていません😅
外資大手IT企業に就職
自堕落な生活を送りつつも、なんとか就職活動だけは行いました。
中学時代からプログラミングに興味を持っていたこと。(今みたいに無料でプログラムを書く環境はありませんでした。)
学生時代にプログラムを多少書けるようになったこと。
などから、コンピュータ関係の会社に就職しようと漠然と考えていました。
今振り返れば、自分の人生をベットするわけですから、もっと真剣に将来について悩み、考え、会社を決めるべきだったんじゃないか?と思います。
しかし、当時のわたしは、「仕事」って何?「自己分析」って何?という状態。
本当に、浅ーい考えで深く考えることなく、同じ研究室の一つ上の先輩が入社した会社がなんかよさそうだなとちょっと興味を持ち受けてみたところ、たまたま受かった。というのが本当のところです。
結局、外資系の大手IT企業に就職が決まりました。当時の自分の実力ではなく、大学名が良かっただけだと思います。高校時代に頑張ったおかげです。
大学院卒業と同時に結婚
就職した会社は新卒社員の約9割が東京方面の勤務だったので、自分も東京だろうと思いこんでいました。
となると、彼女と遠距離になる。
ある意味で学生時代、彼女に完全に依存していたので😅、一緒について来てもらえるように、卒業と同時に結婚することになりました。
就職が決まっていたとは言え、自堕落な生活を送っていた私が、まともに仕事ができるかわからないのに妻もよく決断したなとは思います。
長く付き合っていたことは双方の両親とも知っていたので、この無茶振りな結婚はなんとか許してもらいました。ここでも大学名と会社名に助けてもらったのかなと思います。
そして、私は情けないことに結婚式代は親に出してもらいました。
結婚することが決まり、結納を済ませ、結婚式まであと1ヶ月。彼女のほうも4月で退社する旨を会社に伝えていました。
しかし。
就職する会社から私の勤務地の連絡。
そう。
この流れでわかるかもしれませんが、勤務地はなんと大阪。
結婚しなくてもよかったやん!!(後悔はしてませんよ、誓って笑)
ただ、準備は着々と進み、引き下がることもできません。
3月中旬に卒業して、4月入社前なので実質無職のときに結婚式を挙げました。
仕事は楽しい、でも毎日のように終電帰り
あんなに自堕落な生活を送っていましたが、結婚し、仕事が始まると、こんな私でも人が変わるものです。
研修期間を終え、某都市銀行担当のシステムエンジニアとして働きだしました。
銀行の単独部門用の小さなシステムから、外為決済、コンビニ決済インターネットバンキングなど、様々なシステムの開発〜運用保守まで関わらせていただきました。
仕事は楽しかったのですが、日常的に14〜15時間の長時間勤務。
ただただ、仕事の仕方が下手なだけだったのかもしれませんが、せっかく結婚して一緒に生活を始めたのに、妻との時間はほとんど取れませんでした。
そして、結婚して2年目には長女が生まれましたが、ほとんど家にいないので、なかなか私になつきません。5年目、長男が生まれたときに、妻のワンオペ育児のストレスが爆発しました。
「生き方を変えよう。」
「この生活を60歳まで続けるイメージが持てないんだけど・・・」
と深夜帰宅したときに妻から相談されました。
この日をきっかけに、どんな人生にしていきたいかを真剣に考えるようになりました。
ノートに叶えたい夢をリストアップしたり。
本田健氏やジェームス・スキナー氏のセミナーに参加してみたり。
アフィリエイトや情報販売など副業系のセミナーに参加してみたり。
本業の仕事についても、仕事を辞める覚悟で部署異動を願い出て、比較的時間の余裕があるセールスエンジニアの部門に移動したり。
ちょっとずつ、生活を変えていきました。
晴れて独立するもそこには地獄が待っていた
当時流行っていたPPCアフィリエイトで小銭を稼げるようになり、思い切って会社を辞めました。
最悪、サラリーマンに戻ればいいし、フリーランスのエンジニアでどこかで働けばいいと覚悟を決めて。
ところが。。。。
晴れて独立したものの、そこからが苦難の始まりでした。
いろんなセミナーなどに顔を出し、そこで知り合った方々と一緒に事業を立ち上げるも本当にことごとく失敗しました。当然お金もなくなります。
当時は本当に見境なくいろんなことにチャレンジしました。
サイトアフィリ → 30万/月くらいいったもののGoogleに翻弄され挫折。
テニスの情報販売 → 売上は立つものの利益シェアが小さく撤退。
恋愛系の情報販売 → 売上は立つものの顧客が好きになれず撤退。
語学の情報販売 → 売上をほとんど立てれなかった。
投資系ビジネス → 優良案件と信じて紹介したが、実は詐欺案件だった。
(これは後始末に数年かかり5年以上無駄にしました。)
回線テレアポ会社 → 想定より利益額が小さく撤退。
太陽光発電販売会社→ 好きに慣れなかったことと想定より利益額が小さく撤退。
(残った仲間はその後も頑張り続けて億単位のビジネスに。)
はっきり言って全部失敗です。結構な金額の損失を生んだプロジェクトもありましたし、長期間自分の労働力を費やしたのに大した実入りがないプロジェクトもありました。
結局、私がまともに稼げたのは、ほそぼそながらも裏で続けていたシステム開発でした。
持つべきものはスキルですね、本当に。身を持って実感しています。
システム開発事業と妻の輸入販売事業で稼ぐ
めちゃめちゃ遠回りをしましたが、現在は、改めてシステム開発を主軸に活動しています。
幸運にも、紹介等で中小企業からの直請けで仕事させていただく機会が多く、顧客の顔を見て仕事ができています。波はあるものの収入も以前に比べて断然安定しました。500万前後の案件から1500万くらいの案件まで獲得経験があります。
妻は妻で輸入販売ビジネスを頑張っていて、ときにはそちらを応援しつつ、2馬力で子ども4人を育てています。妻の最高月商は700万円くらい。売上は妻のほうが大きい笑。
ふたりとも自営業なので波の大きさに翻弄されることもありますが。。。諦めなければなんとかなるっていうのを、地で行く感じですね。
実現してきたこと
こんなに失敗続きの中でも色々と実現してきたことはあります。
- 妻との時間を最大化すること。
- 平日の日中に夫婦でカフェに行き、ビジネスや子どもの教育の話をすること。
- 子ども2人を本人が希望する私立中学に入学させたこと。(もうすぐ3人目も)
- (コロナ前ですが)年に数回家族で海外旅行(主にアジアですが・・・)に行くこと。
- 高級ホテル(国内・海外)に家族6人で宿泊。
このくらい、すぐ実現できるやん!と言われると確かにそうなんですが、私(と妻)が目標にしていたことを少しずつ実現していってます。
もちろん、まだまだ実現させたいことはあるのでこれからもがんばります!
最後にこのブログのビジョンをお伝えします
このブログで私が実現したいことはいくつかあります。
私自身が興味を持って取り組み、これまで少なからず結果を出せたのは、プログラミングと情報発信。ですから、この2つの関係を中心にブログでは情報発信していこうと思っています。そして、
このブログをきっかけに、
- プログラミングに興味を持つ人を一人でも増やしたい。
- プログラミングを武器に収入アップした人を一人でも増やしたい。
- 情報発信力を武器に収入アップした人を一人でも増やしたい。
- 収入源を確保した上でサラリーマンを辞めて独立した人を一人でも増やしたい。
- 人生の選択肢を増やせた人を一人でも増やしたい。
なんてことビジョンとして考えています。
これ、結構本気です。
これが達成できなければブログをやる意味がないと思っているくらい、本気です。
まあ、私のように、こんなに遠回りして、ことごとく失敗しまくる人はなかなかいないと思いますが、
このブログをご覧くださった方には、私の失敗を反面教師にして、最短距離で目標にたどり着いていただきたいです。
そのための情報提供を本気でやっていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。